遥かなる君の声 V N

     〜なんちゃってファンタジー“鳥籠の少年”続編
 



          15




 少しずつの傾斜をへて、暗い窟道はどんどん深まってゆく。先程の男が最後の関門のような立場にあった人なのか、あれからずっと自分たちの行く手を阻むための妨害者は誰も現れず。少しひんやりとする空気とか、カメちゃんが変化
へんげしたライオンの爪が頼もしい速足の先でかすかに敷石を引っ掻く音とか。そういったものを感じ取れるほどの静けさと、すぐ間際の様子さえ輪郭が判然としないほどの暗がりの迫る中、セナ皇子はただただひた走る。先程までの狼の姿よりも一回りほど大きい、純白の獅子と化した聖鳥さんの背に乗って。全身の筋力も増したその上、掴まりやすいようにと現れたたてがみに、ぎゅうとしがみついたまま、

  “………。”

 とうとう独りになってしまったことが、さすがに…その胸を小さくはない緊張でぎゅうっと痛いほど締めつける。今にも萎えて逃げ出したくなる気持ちを押さえてのことだろか。知らず知らずの内、すぐ手元の豊かな毛並みに頬を寄せるようにして、獅子のたてがみへ顔を伏せていた。だが、

  “………聞こえる。”

 前方に、確かに、気配がある。何の意志も持たない誰か。まるで眠っているかのように、意識の熱を持たない誰かが、なのに息も切らさず駆け続けている気配があると判る。延々と続く夢幻の闇の中を、逃げているのかそれとも。追っているこちらになぞ てんで意識もくれぬまま、セナの知らない何かに向かって我が道をゆくだけの彼であるのか。

  “進さん…。”

 思えば。傍らから遠ざかってしまわれてから、傍らにいらした時の何倍も、胸の中で、そして声に出して、その名を呼んでいるセナであり。暖かい手のひらや優しい眼差しが恋しくて、だから…納得ずくなんかじゃあない引き剥がされようをしたのが哀しくて。切なくなるから泣きたくなるから、だから考えまいと思っても、それでも…そんなことが出来よう筈もなく。この数日間というもの、独りになれる夜陰の隅っこでだけこっそりと、枕を涙で濡らしてしまってた。そうまで焦がれた人が、今、此処にいる。戻っては来られなくなる事態へ向けて、振り返ることなく駆け続けている。その背中に、何としてでも追いつかねばならぬのに。それへの切迫感とかただならぬほどの渇望と同じくらい、怖くて怖くて堪らない想いもまた、拭いされぬままにある。介添えが誰もいないという怖さや、王城キングダムが誇る最強の剣士に、非力な自分なんぞが歯が立つものかという不安も勿論あるが、そんなことより、

  “ボクをボクだと、お判りにならないままなんだろうか…。”

 血を吐くような叫びにさえ眉ひとつ動かさず、それどころか、その手に握った聖剣で容赦なくセナの手を払いのけようとした彼だったから。彼の意志というものは、もはや封じられてしまっていて、もう誰にも押し開いて元に戻すことは出来ないのだろうか。そして、もしもそうだとしたなら。負界から招かれるという闇の眷属の“寄り代”にされてしまい、世界に仇なす存在になってしまうしかないというのだろうか。それがはっきりしてしまうことが、得も言われず恐ろしいセナであり、
「…っ。」
 不意に襲い来た瘧
おこりを払うように、何度も何度もかぶりを振る。そんなこと、万が一という想像上のお話でだって考えてもいけない。そうならないために、そうと運ばせないために、蛭魔や桜庭、葉柱が奮戦しているのだし、王宮の方々もドワーフさんたちも、せめて無事をと祈って下さっている。そんな力に護られ支えられて、此処まで来れた自分なのだから。今度は、

  “………ボクの番。”

 ふと。しがみついていた獅子の動作がゆるやかなものとなる。そのまま風になり、宙を飛んでゆきそうな躍動に満ちていた疾走が、弾むようだった勢いを緩めて速足程度になり、やがて、どこか用心深い足取りへと変わったのに気がついて。しがみついた態勢のまま、身を起こして前方を見やれば。真っ直ぐな窟道の先、乏しい明かりのわだかまる中に誰かが立っている。それに気づいての警戒が、獅子の脚を緩めさせたのだとすれば、

  「…進、さん?」

 黒っぽい衣装をまとっておいでだったから、その輪郭がはっきりしないが、でも。その武骨な手へ無造作に掴んだままのものが、鈍く赤く光って存在を主張しており。その光がついと高さを変えて持ち上がり、相手の顔の高さまで上がると…見覚えのあるお顔が何とか見いだせた。と、同時に。その辺りへと灯ったものがある。確かに何もなかった中空へ、ぼうっと勢いよく灯ったそれは、そのまま自身の姿をも闇の中に浮かびあがらせ。高脚つきの鉄篭の中へ薪を投じて燃やした“篝火”であることが、離れたところ、セナの眸からも確認出来て。
“咒を使える身になられてる?”
 明々とした炎が躍ることで、無表情なそのお顔に落ちた陰影も躍る。そんな中、揺るぎもしないままの双眸の赤から、セナは殊更に視線を外せずにいる。これまでの攻防の中、間近に見て来た他の炎獄の民の人たちと同じ眸であり、そして。あの人たちは様々に、強力な咒を使いこなしていたことをも思い出す。ここで待ち伏せていた人たちと違い、お城まで強襲のためにと乗り込んで来た顔触れは、たったあれだけの頭数で十分に自分たちを浮足立たせたほどの使い手たちだった。炎獄の民の中にあり、子供へもその偏った能力が遺伝するほどに、召喚系の封印咒力が強く身に染みついた一派の人たち。だからこそ生き残った彼らは、遥かに遠い遠国の空の下で、ずっとずっと故郷のことばかりを思っていたのだろうか。それがために、此処へと戻ったことで、大地の気脈と呼応してその血が覚醒したというのなら、この騎士殿にだって同様なことが起きていても不思議ではなく。彼の場合は、親代わりだったシェイド卿の手により封印されていたから、それでこれまで気づかぬままにいただけのことなのかも?
「進さん。」
 そぉっと獅子の背から降り立つ。凍るような眼差しは向こうからもこちらを凝視したままだ。どんなに呼んでも応じて下さらなかったものが何故? すぐ間際に盾のように控えている純白の獅子が、喉の奥を震わせて低い唸り声を上げ続けている。対手が放つ冷たい殺気を大切な主人へ向けられしこと、殊更に警戒してのことだろう。こうまでの至近からこちらを向いている彼であるが故、セナもまた、その意志の矛先をまざまざと感じることが出来る。いつもの眼差しであったなら、優しく暖かなその視線だけですっぽりと総身を包み込んで下さる、それはそれは頼もしい気配であったのに。今の彼からはそんな“温度”は微塵にも感じられないままであり、その分も凶暴な、冷ややかで痛いほどの敵意をのみ真っ直ぐに感じる。
“正気では、ない?”
 やはり左手にはグロックスを提げたまま、胸へとかかっていた漆黒のマントを肩の向こうへと跳ね上げた所作を前へと返し。右腕だけを大きく回して、その腰から聖剣を抜き放つ彼であり。すぐ足元にて“ヴルルル…”と、獅子が唸り声を高めたのに気がついて、
「………。」
 呆然としている場合ではないぞと、セナも大きく息を飲む。そんな所作の端、僅かばかりに震えたものが伝わったか、

  ――― ちゃり、と。

 涼やかな金属の鳴る音がし、はっと我に返ったと同時、小さな手が思わず伸びたのが自分の腰。今までこんなものを帯びたことなど一度としてなかったのと、あまりに軽かったことからすっかりと忘れ切っていたもの。ドワーフさんたちに錬成していただいた、アクア・クリスタルが鋳込まれた聖剣に手が触れる。ただでさえ剣術には全く馴染みのないセナだけに、道具としての扱いも覚束無かったが、
“もしかして…。”
 聖なる道具は、そのものの持つ機能とは別に、聖なる祈りを込めたりそれを増幅したりする効果だってあると、導師様によるお勉強の中でセナも学んでいる。アケメネイの聖域の奥深く、水晶の谷にて聖霊の筧さんが護っておいでだったオーブを鋳込んだ剣には、そういう力もより強く宿っているのやも。葉柱さんから提げていただいた側の、左手で鞘を掴んで、もう片方の手は細身の柄へ。鍔近くを握りしめると、冷ややかな感触がして、緊張から胸が躍り上がりそうになったが、それを押さえ込み、ゆっくりと引いてみる。傾けただけで鞘から滑り出さぬようにと、刃を鍔へ留めている金具が少し厚みを持つことで堅く嵌まっているのが“鯉口”という部分で、そこを意識して かちりと外せば、剣の本体、本身の部分が鞘から外へ、なめらかにすべり出て来て。
“………え?”
 手元へと視線を降ろさずとも、それはなめらかに一気に抜くことが出来たのへ、誰でもないセナ自身が驚いた。軽く小ぶりな剣ではあったがそれでも、セナの腕の長さと変わらないほども刀身は長いのに。慣れのないセナがしかも初めてやってみたものが、どこにも閊えることなく、何の障りもなく引き出され、しかもしかも。
“…あ。”
 鞘を押さえていた手の方も、柄へと勝手に添えられており、脚も開いて やや腰が落ち…と。気がつけばきっちりと、温室で葉柱さんから教えていただいてた基本の立ち姿、腰が据わっての身構えがバランスも重心も十分なまでに決まって完了していたり。
“これって…。”
 無理から強制されているという感覚は全くなく、強いて言えば、柄から手のひらへ何かが流れ込んでいるような感触はあるから。セナの体内で先程練られていた気脈の螺旋へ、剣の何かが呼応して、それによって双方が一体化されているのかも。陽咒を込めての錬成による、持ち主を守護せんとの祈りを込めた聖剣の不思議。だが、
「………。」
 確かにこちらを見やったままな進さんなのに、この剣の輝きだってその双眸に映っているはずなのに。厳然と堅く冷たい無表情は動かぬまま。その代わりのように、
“…え?”
 その手に提げられたままのグロックスの帯びた光が、音もなく明滅を始めたではないか。まるで何かしらの生き物の鼓動を思わせる、昏くて赤い光の点滅は、そのままそれを手にした騎士殿の生命の拍動のようにさえ見え、
“進さん…。”
 それを目の当たりにしたセナには、白い騎士の命の脈動をそこへと取り出したような、何とも不吉な光にしか見えなくて。冷たく張り詰めた沈黙が、不意に、

  ――― しゃりんっ、と響いた冷たい鍔鳴りの音と共に、

 途轍もない勢いで立ち上がった何かが闇の中を躍る。一直線に翔け抜けた旋風によって、その闇さえ切り裂かれる。沈黙をまといしまま、端然と立ち尽くしていた騎士の総身からほとばしった威容が、鋭く尖った風と化し、眸にも留まらぬ瞬時の攻勢となって放たれて。彼の剣が、瞬殺の剣“鬼神の槍”と呼ばれていたその由縁。標的にされた者は、斬られたことにさえ気づかぬまま逝ってしまうことだろうよと、謳われ恐れられているその先端が、なのに…セナの眸にはくっきりと見えた。というのも、
「わっっ!!」
 その屈強精悍な騎士殿の姿が唐突に消えて。あんなにも見つめていたのにと慌てかかったセナの手が、やはり不意に持ち上がる。そうして、

  ――― がっ・しゅりんっぎんっ、と。

 ほんの鼻先の頭上にて、傘のように楯のように翳された水晶剣の刃が、騎士殿の振り下ろした剣の切っ先をがっつりと受け止めたから。
“…どうして?”
 凄まじい衝撃を、しかも思いも拠らぬ間合いで受けたことへの驚愕は並大抵のものではなかったが、それよりも。不意を突いた、つまりは速さ優先の攻勢だとはいえ、あの白き騎士殿の繰り出した“必殺の剣撃”であった筈なのに。刀身の両端を支えての喰い止めででもあるならまだしも、両手は柄の部分を握ったままという、何とも力の込めにくい態勢でいるセナが…進の豪剣の重さを持ちこたえているのだ。
「…っ。」
 不意打ちが不発に終わったことから、ならばとそのまま剣が引かれ、そして、
「あっ、わぁっ!」
 今度は続けざまに、しかも高々と振り上げた高みからの、叩きつけるような剣撃が降ってくる。分厚い鉈
なたに満身の力を込めているかのような。斬るというより粉々に粉砕するような勢いでの連打が続いたものの、
「いやっ! わっ!」
 やはり…剣が勝手に反応し、その悉
ことごとくを受け止めて、セナのどこへも触れさせぬよう遮り続けており。しかもしかも、相当に重い攻撃であるはずなのに、叩かれている衝撃こそあるものの、その手への痺れさえ残らぬほどに、威力の重さが軽減されてもいるものだから、素人のセナが、なのに剣を取り落とすような恐れもない。何とも凄まじい“防御能力”を持つ聖剣であったということか。とはいえ、
“………。”
 がつがつと荒々しい、忌まわしいものでも排除するような猛烈さにての攻撃を受けていること自体が、体は守れても…セナの胸中を見えない棘で容赦なく削っている。剣が当たるほどに、つまりはすぐ間近になった騎士様だったから、その姿もすぐ手の届くほどの至近となっているのだが。こちらを見下ろす鋭角的なその風貌が、冷たく無表情なままなのが何とも言えず恐ろしい。暗がりの中でもそれと見定められる、涼しげな目許、厳格な意志の凛々しく滲む口許。異国の装束でも何ら不自由を見せてはいない、それは鋭い“体捌き”には、曖昧な薄暗がりにあっても冴えて際立つ所作の機能美、洗練をまといし美しささえあって。

  ――― 想う心に変わりないのに。

 セナへはいつだってそれは奥ゆかしい態度でいらしただけに、そんな人からのこの荒々しき攻撃は…このまま消えてなくなれと、容赦なく責められてさえいるようで。それが辛いし哀しくて。痛さは響かぬ身である筈が、徐々に徐々に削られてゆくもの、萎えてゆく気概と一緒になって意識の張りさえ もはや薄くなりつつあって。このままどこぞかへ吸い込まれてしまいそうになるセナで。
“ああやはり…。”
 もう既にその意志を封じられておいでなのかな。その手にあるグロックスの反応から、セナか水晶の剣かへの敵対反応が出てのこと。機械的に“邪魔物を排除”している彼なのだろうか。明滅を繰り返す砂時計の方こそが意志あるもののようにも見え、それがそのまま、進を煽っている魔物そのものと思えてならず。

  “…これを壊せば。”

 窟内いっぱいに反響し、居たたまれないほど耳に痛くて身も竦む、鋼の刃同士が激しくぶつかって出る金属音が轟く中。不意に。そんな想いがセナ皇子の胸へと去来した。ドワーフさんは、特殊な素材で作られているから落とそうが叩こうが割れないと話していたが、こんな不思議な力を発揮し続けている剣でなら? そうだ、もしかして。この剣が恐ろしいから、これまで振り返りもせず無視していた非力なセナへと向き直り、叩き落とせと進さんを操っているグロックスなのかも知れない。だったら…、

  「…っ、呀っ!」

 初めて。こちらからの意志を聖剣に込めてみる。降り落ちて来た剣へ、来ないでという想いを込めて押し返すと、ただ機械的に降りては上がりをしていた白い騎士殿の側の剣の切っ先が、今だけは…暗い中に火花が散るほどもの衝突となったがため、一際大きな耳障りな衝撃音と共に、それは大きく弾かれ、頭の上ほどにも遠くへ退いたから。
“今だっ!”
 利き腕が剣ごと遠のいた隙を衝き、すっかりとがら空きになってしまった騎士殿の左の手元へ目がけて。対手からの攻勢を弾き上げたことでこちらもその切っ先を高々上げていた剣を、大きな弧を描いて引き戻す動線の終着に、目指すは毒々しい砂時計。腰の高さにまで引き降ろしたらそのまま、突いてでも薙いででも叩き落としてやろうと、それへこそ集中しての反撃だったのだが、

  ――― っ!

 何も。そう何をも見てはいなかったはずなのに。明後日の方を見たまんまの無表情を保ったそのまま、なのに。左の手が大きく引かれ、忌まわしいグロックスがその危難から守られる。これはやはり、彼を制御しているのは…妖魔が宿っているかのような、不気味な拍動を刻み続けているところの、無機物な筈の古めかしい時計のほう、だったのだろうか。そして、
「…っ!」
 相手が逃げたことで、今度はこちらの態勢に隙が生じる。両方をそろえて伸び切っていた腕へ、頭上から不吉な陰が降って来る。いくら万能の防御をフォローしてくれていた聖剣でも、こんな態勢からの挽回は不可能だろし、こうまで細っこい腕ならば、何本が相手でも片腕で楽々叩き落とせる騎士様に違いなく。もはや逃れようのない死の淵に追いやられた自身を自覚して、そのまま全身の血脈が蒸散しそうなほどもの恐怖が襲い来る。頭の先から背条、爪先に至るまで、どこも残らず総毛立ったままにて凍りつき、咄嗟にぎゅうっと眸を瞑るしかなかったセナの体を、だが、
“…え?”
 横合いから突き飛ばした何物かがあった。その衝撃もまた、自分へと向いた攻撃に思えて、口の中での悲鳴を上げかけた皇子であったが、

  「ぎゃゎうっっ!」

 それよりも大きく悲痛な声が上がって…ハッとする。押しのけられた自分が力なく倒れ込んだ同じ敷石の床に、すぐさま追っての陰が来て。肘へと触れたのは…柔らかな毛並み。ついさっきまでしがみついてた、それは豊かで勇ましく、なのに自分へは優しかった、白い獅子のたてがみだとすぐに判って…セナが青ざめた。

  「カメちゃんっっ!!」

 明かりが乏しい中、それでも…倒れ込んだふわふかな体の下から、見る見る内にあふれ出る何かが床をどんどん濡らしてゆくのはありありと判って。またもやその身を投げ出してくれたのだと、それが判って…思考が凍って止まりそうになる。大好きな人だからというだけで、怯むことなく刃に臨み、こうまでして護ってくれた愛しい子。その身へそぉっと寄り添えば。こちらに気づいてだろう、弱々しい声でぐるぐると、甘えるように鳴いてみせ、
「あ…待っててっ!」
 治癒の咒を、そうだ、早くしないとと浮足立ちつつ、握っていた剣を鞘へと戻しかけたその所作が、
“…え?”
 どう作用しての力が働いたものか。へたり込んでた両足・両膝に、踏み込むための力が満ちて、負担のないまま立ち上がれている。
「ちが…違うっ、カメちゃんに咒を…っ。」
 間に合わなくなると焦りかかっていたセナが、傍らの床へと倒れ伏すお友達を見やったその拍子、

  ――― ぶんっ、と

 真上からの疾風が頬を掠めて。着ていたサテンの上着の襟元、ざっくり切り裂いた何物かが通過した。
「な…。」
 こんなにもオロオロしているセナであっても、彼にはもはや、全く関係ないのだと。それは、それを思い知らされた一閃でもあった。何げに立ち上がった場所が、あとほんの数ミリでも前へズレていたらどうなっていたか。
“進さん…。”
 もう…何も通じないのだと。言葉も、愛しいあなたがそんなでは悲しいと思う感情も、何ひとつ伝わらないのだという、その事実こそが胸に痛い。口数は少ないながらも、
『どうされましたか?』
 小首を傾げて覗き込んで下さった、あの深色の瞳はもう戻って来ないのか。炯々と闇の中に灯った赤い眸の、何とも無感情な痛々しさが、彼がもはや生きた存在ではないのだと、自分の知る“進清十郎さん”ではないのだという印のようにさえ見えて、

  「…っ!」

 もう、嘆くのはやめた。哀しみではなく、怒りを抱こうと思った。だだ甘い哀しみは何も救わない。少なくとも今現在に必要なものではないと、悟ったセナが選んだものは。その小さな手に少しずつ馴染み始めている、冷たい柄をした青い剣と、それから。

  《 天と地の守護よ、我の声を聞きたまえ。
     我を導く氷の刃、大地の気脈にこの名を与えん。
     グリュンネンワルド、緑の縁者よ、彼の者を強く拘束せん。》

 窟内へ朗々と響いた咒詞が、再び振り下ろされかけていた、赤い双眸の騎士の手を中空へと固定する。もう、何をか選ぶ余地もないのだと。それを悟った光の公主様は………。







          ◇◆◇



 自分ひとりが潰えても、大丈夫、セナ様の周りには頼もしい顔触れがいる。光の公主様として、咒という不思議な術を…人一倍の威力のそれを制御し統括出来るようにと、皇子を指導している、蛭魔や桜庭、葉柱殿といった優秀な導師たちや、誠実で聡明な剣士の高見殿もいる。皇太后様も国王陛下も、セナ様を大切なお身内として、それは手厚く遇していらっしゃる。

  ………………。

 なのに。どうしてだろうか。気が晴れないのは。もうお逢い出来なくなったからか? 未練が心を掻き乱すのか? そんな風に“寂しい”と思うような心が、この自分にもあったのかと、それが意外で…驚きで。誰かを大切だと思う心は、その人のためなら何でも出来ると、人を強くする想いだと思っていたのに。それと同時に…逢うことが叶わぬ身となってしまうと、その途端に人を弱くしてしまうものでもあるのだろうか。



  ………………………………………………………。



 いつの間にか、何も聞こえず何も見えない、そんな空間にただ漂っている。時折、稲光がほんの刹那だけ辺りを白く叩くように、情景が見えたり声が立ったりしているのだが、どこでと注意を巡らせるのが全く間に合わず、はっきりとは見えない聞こえないままでいる。そんなところへ、
『進さんっ! よかった、ご無事だったんですね?』
 いやにはっきりとした声が立って、自分の傍らまで駆けて来た人影がある。周囲の濃い灰色の幕を、スルリと抜けて駆けて来たのは、たいそう小柄な少年だ。まだ幼い声に小さな手。その手が、こちらの手を大切そうに包み込み、
『生きた心地がしなくって。進さんがいないと…心細くて。』
 それはそれはほっとしたと言いたげに、柔らかく笑ってくれる。

   ――― これは、誰だ?

 不思議と、顔が半分しか見えなくて。口元から下だけしか見えない彼は、
『え?』
 小首を傾げ、意味が分からないという声を返し。
『何を言い出すんだ。勿体なくもお前を案じておられた、セナ様だろうが。』
 これもまた、いつの間に現れたのか。別の誰かがそんな言葉を添えてくるのだが、

   ――― 違う。

 この人はセナ様ではない。なのに、その少年はセナ様の声で語りかけてくる。
『怖い想いはもう沢山です。もう何処にも行かないで下さいね?』
 愛しい愛しいと頬擦りし、小さな両手で大切そうに覆った私の手を捧げ持ってくれている。
『セナ様には、お前しかいないのだ。』
 間近になったその声が紡ぐのは、誰の、意志?
『お前だけを頼って、お前だけにすがってほしかったのだろう?』
 ほら、こんな風に。愛しい人、どうか傍にいてと。雄々しき人、どうかお護りくださいと。頼ってほしかったのだろう?

   ――― そうじゃあないっ!

 いいじゃあないか、ムキにならずとも。大切な人から“あなたを…”と求められ頼られるのは、甘くて切なくて、それはそれは気持ちの良いことだからね。ならば、これからもずっと一緒に居ればいいのだ。お前がその腕でその身で、か弱き御主を護り続ければいいだけのこと。

   ――― セナ様を貶めるなっ!

 ただ。ただ自分は、セナ様の笑顔を守りたかっただけ。いつも笑っていてほしかっただけ。心安らかにおいでであるなら、それでいい。ただ同じ空間に居られるだけでいい。
『ならば。いっそどこぞの壁の中、完全に安全なところへと囲ってしまえばいい。』
 風の唸りのような声がどこからか囁く。
『お前以外の誰の手も触れられぬよう、目線さえ届かぬように封じてしまえばいい。』
 そうすれば。セナ様も傷つくことはなくなるし、お前だって心安らかにいられようにと、そんな声がしきりとざわめいて…。

   ――― 違うっ!

 間違えるな。己の己たるを見い出すのだ。傍らに居たかったのは何故? 求められる存在でありたかったから? それはそれは覚束ない、か弱き方だから? 違う。確かに、あまりに可憐で、自分でよければと手を延べたくなるような方でもあったが、そしてそれが始まりだったかもしれないが。ご自身がか弱いことへも卑屈にはならず、何処までも心優しいままの御主。刺客や邪妖に襲われるような怖い思いをなさっても、
『刺客ですっ。どうか木立ちに沿ってあちらの、皆のいる方へっ。』
『いやですっ!』
 怯えながらも、庇った背にひしとしがみついて。そう、そこから背を向けて逃げたりは決してなさらなかったのを思い出せ。
『邪魔はしませんっ。』
 見届けるだけでもと言い張って、危険な圏内、敵のいる空間から逃げなかった人。見切っていい護衛の自分を、なのに、置き去りに出来なくてか。片時も離れて下さらず、
『…お前な。』
 それでは却って、進の足手まといになってんだぞと。金髪の導師殿に叱られてばかりでおいでだった、可愛らしい方。

  『大切な人が傷つくのは辛いです。』

 先の騒乱にて味をしめたような無頼の者や、王族に連なる身なれば攫ってゆけば金になると短絡的な欲心から襲いかかって来る浅はかな者どもよりも。光の公主であるという理由から牙を剥く、妖かしの存在の方が手ごわくて。しかも、先の諍いが収まってもなお、そんな存在はまだまだ少なからずいる。
『あん時のお前は、自我が飛んで闇雲に力を発揮しただけだからな。』
 まだまだまともに制御も出来ない、覚束無くも非力な身では、結局何も出来ないのと変わらないからと。日々、咒の制御という習練に励んでおいでの、懐ろの深い、素晴らしい主上だったから。そんな御主をお護りするためには、自分ももっともっと強くあらねばならなくて。

  ―――そう。素晴らしい方だからお護りしたい。そんな方のお役に立ちたい。

 この自分こそがお護りしなければならない人。か弱きセナ様。そんな逆の理
ことわりで、順序の違う決めつけで、彼の人を、御主を貶めるな。


   ――― 進さんっ!


 鋭い風が真っ向から吹きつける。いつの間にか再び視野にかかっていた灰色の靄
もや。それのところどころが払われて、その向こうの漆黒を背に、すらりと立っている影がある。青い柄も優美な、見覚えのない細身の剣を正眼に構え、少し堅いがそれだけ重い決意に覚悟を決めたことを偲ばせる、そんな面差しをした小さな戦士がそこにいる。右手の甲には、女神の横顔の浮彫レリーフで飾られたメダリオンが見えて、
“…ああ、そうか。”
 何と凛々しいお姿だろうかと、声もなく見惚れた。邪を祓うためならば身を切る辛さをも乗り越えられると、どんな英断でも下せるまでに腹をくくった覚悟の強さ。そんな想いを、まだまだ幼い眼差しに、それでも鋭く宿した毅然としたお姿の、何と誇らしくも堂々となさっていることか。そんな彼に真っ向から見据えられていることで、胸が喉が締めつけられて、苦しくも熱く、そして…切ない。

  ――― 進さん。

 勿体なくも全身で叫んでおいでの、想いを込めたそのお声。頭か心か、少しは霧の晴れた今、何とか聞こえるようにもなったというのに。もはや自分でも侭ならぬほど、体の自由が利かないでいる。こんな姿を晒したままであなたの前にいる、愚かで非力な自分を、どうかお許し下さい………。










 


 
 




 もう、この声も届かないのか。自分を見分けても下さらぬのか。哀しき傀儡、闇の者を呼び招くための“寄り代”と、このままなり果ててしまわれるのか。
「どうして…。」
 選りにも選って、どうしてこの人でなければならぬのか。誠実で不器用で、実直で純朴で。強い心と優しい気立てと。何も知らぬままの純白無垢なところが、それ故の真っ直ぐな気丈さになったと同時、困惑や戸惑いに心揺らしてしまわれることもあったりし。それでも怯むことなく、真っ直ぐであることを貫いて来た方が、どうして…。
「…っ。〜〜〜っ!」
 今のセナに確実に使える咒の中で、最も拘束力の強いもの。大地のどこかに呼びかけて、健やかなその蔓を助けとして呼ぶこと。不意に足元から、堅い岩盤を物もしないで顔を出した植物の蔓は、そのまま何かしらの生き物の触手を思わせるようななめらかな動きで、セナの求めに応じ、雄々しき騎士の肢体を搦め捕って封じた。こうでもしないと、非力な自分では到底 敵いはしないだろうから。
「〜〜〜っ!!」
 今も、侭にならない四肢を、それでも何とか解放させんと。表情はさして動かないままながらも、太々とした何本もの蔓に搦め捕られた腕や脚、引き千切ろうとしてか、力を込めてはもがき続けている彼だから。そこへと咒の炎でも思いついてしまったなら、あっと言う間に振りほどかれる。今をおいて好機はなくて…。
“…進さん。”
 この人を滅ぼすことを“好機”と数える自分が苦しい。だが、今を逃せば取り返しがつかなくなるのも事実。滅びを司る“闇の眷属”の殻器などにされてしまっては、その身がどれほど穢れることか。セナの悲痛な表情にも気づかぬまま、何としてでも蔓を引き千切ろうとする騎士殿へ、

  ――― 進さんっっ!!!

 逃げないと誓った。覚悟を決めたと約束したから。だからこそ、封咒への念じは解かないままでいた。聖剣を握ったその手を、どんなに重くとも、どんなに嫌な衝撃を得ようとも、ずっと絶対離さずにいようと思った。両手でその柄を握りしめ、腹の上で固定した聖剣。四肢の自由が利かないその身へ目がけ、飛び込むように駆け寄ったセナの身が、ぴったりと密着するように進の懐ろへと伏せられる。その手が支えた剣の切っ先は…確かに何かに当たったし、そのままどこまでも深々と押し込まれていった。
「つ…っ。」
 その感触から逃げずに、全て拾ったその手が今、灼けるように熱いのはきっと。大切な人に敵意を持った、こんな仕打ちを授けた、それを嘆いている…未だ弱かった心の痛みのせいだろう。哀しくて哀しくて、胸が痛い。心折れてはいけないと、少しでも隙があれば、容易く手折られようからと。唇を噛みしめて、嗚咽も涙も堪えた上で。胸が張り裂けそうに痛いのも、喉の奥が腫れたように熱いのも。必死で飲み込み振り切って、ただただ相手へと体ごと攻勢を押しつけ続けている。ああこんな間近にいるのに。ずっと遠かった人、逢えなかった人。それがこうまで間近にいるのに、これがそのままお別れになってしまうのか。
“…進さん。”
 気を散らせばそのまま、呆気なくもねじ伏せられると、だから集中しろと自分に言い聞かせているのだけれど。久方ぶりに飛び込んだこの人の懐ろは、やっぱり温かくて…いい匂いもして。
“………。”
 こうまでくっつく機会はそうそうなかったけれど、マントの陰にて冷たい風から庇ってくれた時などは、大きな手のひらが、いつもこうして髪を梳いてくれた。最初は何故だか おっかながってのように怯みがちに、ふわりと触れるだけだったものが。長い長い冬の間には、少しずつ加減を覚えて下さって。指先を差し込むようにして梳いて下さるようになったの、遠慮が薄れたみたいでとっても嬉しくて大好きだった。たまにのことだからご褒美みたいで、それでと甘えて“もっと”なんて目顔で せがんだりもしたものだったっけ。
“…そうだった、こんな風に。”
 いつの間にやら、うっとりと甘やかな気持ちになっていて。ふと。見下ろした足元には、小さな仔猫の姿へ戻った聖鳥さんもいて。…あれ? でも、カメちゃんは確か、白いライオンの姿のままでいなかったか? 大きな怪我を負ってはいなかったか? まさか…傷が重くて命を落としてしまった彼なのか。だったら自分も…? いつの間にか…痛いとも怖いとも感じぬほどの瞬剣で、命を摘まれてしまったのかな。こんなに幸せな空気に包まれているのは、天へと召される途中だからなの? だったら…でもでも………。


   “……………もういいや。”


 どっこも痛くはないけれど、もうもういいや。蛭魔さんや葉柱さん、多大なるご尽力をそそいで下さりし皆様からは、何をあっさり諦めているかと、思い切り叱られそうだなとも思ったけれど。………もういいよね? ボクでは歯が立たなかったの。心が散り散りに砕けるほど頑張りましたが、ダメでした。もう進さんにも逢えないのが、一番辛いことだけれど。闇の眷属に呪われた身となって憑かれてしまわれるの、防いで差し上げられなかったのがひどく心残りなことだったけれど。涙が涸れちゃったほど泣いたその後で、本当に覚悟を固めて、それからね。大好きな進さんへ向けて、それ以上の暴挙はないこと、剣を突き立てるなんて恩知らずなことを、この手でやり果
おおせてしまったのだもの。死んだ後までそんな形で罰が当たっても仕方がない。

  「………セナ様。」

 優しいお声がする。凄いなあ、出来るだけ悔いが残らないようにって、至れり尽くせりなんだ。魂の欠片だって地上に残ってちゃあ、闇の者には困るからかな? 頬をくっつけてるお胸。ああ、なんか堅いのが邪魔っけだ。鎧の代わりのプレートを、胸の急所を守るのにって提げておいでだったっけ。これも退けてくれないかしら。お顔を少しだけ持ち上げて、上目遣いになって見上げたら………。


  「セナ様。」

   ――― え?


 お顔、違う。何かが、違う。

 さっきまでと、何かが違う。何だろ。何かが違うの。

 口許がやさしいの。笑ってらっしゃるの。

 背中に回された手が暖かくて、あ、封咒も解けちゃったんだ。

 野ばらの蔓だったみたいで、痛かったでしょう? ごめんなさい。

 髪を撫でて下さるのが、やっぱり暖かい。

  「………進さん?」

 呼んでみたら。

  「はい。」

 答えて下さった。

  「進さん。」
  「はい。」
  「進さん、あのあの…。」
  「なんですか?」

 何でだろ。進さん、どこかが痛いのかしら。優しいお声がかすかに震えてる。じっと見上げていると、頭の後ろへ大きな手が添えられて、そのままふわりと掻い込まれた。お顔が見えなくなったので、

  「…進さん?」

 どうされましたかと訊こうとしたら、

  「すみません…。」

 小さな小さな声がした。何度も何度も同じ声。すみませんでしたと、何度も何度も。時々聞こえなくなっては、息を飲み込む気配があって。
「進さ…ひゃあっっ!」
 何かがぴょいって脚へと飛びついて来て。それがあまりに突然だったから、ひゃあって飛び上がりそうになったら、あのね? 小さな仔猫のカメちゃんが、爪を器用に引っかけながら、二人の懐ろのところまで登って来てね。セナの頬をしきりと舐めてから、セナの小さな肩のところに添えられてあった、進さんの手のひらも、甘えかかるようにぺろぺろって舐めている。柔らかで暖かい、少し濡れてる感触が、ああ、今朝方ベッドで同じようにして起こしてくれたのと同じだなぁってぼんやりと思い出せて。

  それって………。

  あれ? それって………?









      「…………………進、さん?」


      「…はい。」








  「…………………進さん。」

 眸の奥が熱い。涙が。重たげなほどの大きさの滴になって、一気にあふれ出てくるのが自分でも判る。頼もしくて暖かなお胸。大きくてやさしい手。頬へと直に響く、深みのあるお声。

  ――― セナ様。

 何か仰っているのによく聞き取れない。気がつくと、小さな子供みたいに“うわああぁんっ”て大声を張り上げて泣いてたボクだったから。それもあって困ってらしたみたいで、でもあのね? ぎゅううってしがみついてたセナのこと、もう離さないでって泣いてたセナのこと、進さんの方からもしっかり抱きしめてて下さって。


  ――― ご心配をおかけしました。


 ああ、いけない。お帰りなさいって、言えば良かったんだって。そうと気づいたのは随分と後になってからで。その時はただただ、進さんとばかり連呼するしか出来なくて。そして、

  「………今日びの闇の咒は何か? 泣き落としで解咒出来るのか?」
  「さぁな。」

 結構な痛い想いもたんと浴びた、それぞれなりの修羅場を掻いくぐり、まだ見ぬ先にて鳴り響いた不穏な気配へ、心胆さむからしめたその上で。やっとのことで辿り着いたところでは…ああまで手古摺ったことが何とも呆気なく決着を見せての、とんでもない図が展開されていたものだからか。目許を眇めて呆れたような言いようをした蛭魔さんへ、葉柱さんが何とも言えぬと苦笑を返したものの。勿論、単なる軽口ではなくて、
「…付け焼き刃の“やっとぉ”が、少しは物の役に立ったらしいぞ。」
「ああ。」
 剣士なら魂でもある筈の、聖なる剣が2人の足元には落ちていて。そんなところから、何かしら…壮絶な葛藤なり苦衷なりがあってのちの愁嘆場だと、ちゃんと見抜いていらしてのこと。そんな二人が見やった先には、セナの腰から外れたらしき、あの水晶の聖剣の青い鞘が。薄暗がりの中、それでもシャープな輪郭を濡らしてその存在を示していたのだが、

  ――― え?

 それが不意に淡い光を放ち始めた。何の気配も帯びぬままながら、それでもふわりと浮き上がり、えくえくと泣きじゃくるセナの身へ向かって宙をゆくと、触れた端から…あまりに脆い、砂か砂糖で作ってあったかの如くに、その姿を崩し去ってしまう。

  「…え?」

 それと入れ替わるかのように。ひしと抱き合ってた主従二人のその狭間、何かがほわりと光を放って。後からセナが言うことには、そういえば…自分がずっと離さないで握っていたはずの聖剣の本身の方が、いつの間にかどこにもなくなっていたのだそうで。
『進さんを傷つけてなくって本当に良かった』
 などと、惚気としか聞こえない“おまけ”の方は聞かなかったことにした皆様だったりしたのだが。
(苦笑) そんな格好で行方を一旦晦ました、アクア・クリスタルの御加護を抱いた、セナ皇子のための水晶の聖剣は。護るもの・護る人を絶対に間違えないといいう、ずば抜けた奇跡を再び見せてくれ、

  「それって…。」

 健気な皇子の一途な愛のおかげで、闇の傀儡に堕ちるところだったのを救われた騎士様の左の腕の中ほどへ。銀色の鋼の上へ青を基調にした浮彫が見事で、冴えた月光のように美しい、さっきの鞘のモチーフそのままの、コンパクトだががっつり厚みのある、装着型の盾が現れて。

  「…あれってのは、進への新しい装備ってことかね。」

 すっかりと当人の意思というものを取り戻せているのなら、武装は進の側が総てを引き受けたほうが良いに決まってはいるのだが。それがこの場にて形を取ったということは…。

  「…まだ続きがあるぞってことだろな。」

 忌ま忌ましそうに、その鋭い目許を尚のこと尖らせた蛭魔の睨んだ先。赤々とした光を放ったまま、無造作に転がされてた、あの不吉な砂時計が…音もなく宙へと浮かんでいたから。そして………。








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  *いきなり長い段落ですみません。
   ぐりぐりと書いてるうちに
   何だか、どこで切ればいいのか判らなくなってしまいまして。
   後日に編集しなおすかもですね、こりゃ。
(こらこら)